2026.09.04
「言わなあかんこと」——紀伊半島大水害から15年、岩渕さんとの対談

9月4日で、紀伊半島大水害から15年になる。私は15年前にその災害で被災した。そして後輩(ひろあき)を亡くした。それが起業したきっかけ。
「土砂災害で亡くなる人をゼロに」これだけを目指して、防災の会社を立ち上げた。
今まで、自分がやってきたこの活動は、私が勝手に想って、勝手にやっていること。当時のことを具体的に語るのは、当時あの町に住んでいた身からすると気が引けた。あまりにもひどい災害だったから。

今年はテレビの取材があり、その一環で、紀伊半島大水害の遺族会の元会長である岩渕さんとの対談を撮影していただくことになった。岩渕さんはその亡くなった後輩のおじさんにあたる。
撮影の前後で、那智勝浦町内もあらためて歩いた。ずっと会いたいと思いながら、会いに行く踏ん切りがつかなかった人に、15年という節目でようやく会えた。岩渕さんから「頑張れよ」って言ってもらえた。だから15年たった今日、当時の状況や想いを初めて書く。当日岩渕さんとかわした対話をできるだけそのまま記録する。
再開
岩渕さんと会うのは、高校生ぶり。
岩渕さん:新高でマネージャーしよったやろ。野球のマネージャー。
奥川:そうです(笑)。お久しぶりです。
岩渕さん:ほんま、マネージャーでなぁ。会社つくって、災害関連の仕事してもろてる聞いて、ありがたいと思って。遠いところありがとうございます。
奥川:今日はよろしくお願いします。

ひろあきは、私が那智中学校に通っていたときの一つ下の後輩だ。当時、私は新宮高校野球部のマネージャーをしていて、「野球部に入りたい」と言っていたひろあきを「新高おいで!」と声をかけていた。岩渕さんは新宮高校野球部のOBでよく練習にも顔を出してくれていた。
岩渕さん:亡くなる3日前にも、野球の話しとったって聞いてな。
奥川:「どこの高校行って野球しようかな」ってよく話してくれて。私マネージャーしてたから、「それなら新宮高校おいでよ」って。ずっと来てくれるの楽しみにしてたんです。自分自身、会社を災害きっかけで始めた時も、私が勝手にやってるだけやから、実際被災された方々はどう思ってるんかなってずっとあって。でも今日こうして岩渕さんとお会いできて……。

岩渕さん:あれから、15年で。俺らには節目はないんやけど、13回忌で遺族会は解散してな。今は俺一人でいろいろやらせてもろてるんやけど、この15年のタイミングで会えて、自分の心の中ではすごく感無量というか。
あの日

奥川:災害があった日、那智中学校で野球してた子から電話がかかってきて、「ひろあきがどこにいるかわからんのや」って。私、何もそのときできなくて。それがずっと悔しくて。私自身、それまで勝浦のことも嫌いやったし、東京行きたいなとか、都会に憧れたりもしてて。自分のやりたいことにも言い訳して全然やらんかったんですけど、それをひろあきが教えてくれたと思ってるんです。
岩渕さん:そう言うてくれるだけでありがたいわ。あんときはもう、おらんと言われた日から俺、毎日朝から晩まで探しよってな。
さがし続けた一週間
岩渕さん:結局見つからんで、見つかる1日前にそこ通ったんやけどな。探しよったら、腐った冷蔵庫があってな、その匂いが柿の木のところであったんよ。「なんか違う匂いするな」と思いながらそこ通り過ぎて。で、次の日に自衛隊の人が「ここにおる」言うから、「あそこ違うんか」言うたら「そうや」言うんよ。「俺昨日そこ通ったとこなんや」言うて。ほんまにガレキの中に埋もれとった。

奥川:そういう話も、友達の中ではこの災害のこと、そんなに話せなくて。未だに傷ついてる子もいるだろうと思うし。
岩渕さん:言いたないことでも、言わなあかんことって結構あるんよ。どこまで言うか、そこで制限してしもたら嘘になってしまう。俺はどの取材でも、本当のことを全部言うようにしてる。
奥川:私は嬉しいです。そうやってその時のこと、ちゃんと知れて。
一週間前に言ったこと

岩渕さん:うちの家な、災害の1週間前に、ちょうど熊野古道の立ち退き検査受けてん。終わってから、川がカーブしてるとこあるやろ。あそこ連れてって「ここ補強せなんだら、上から鉄砲水来たらここにもろに来るで」言うたんよ。そしたら「世界遺産があるからコンクリ使えん」言うてな。「もし鉄砲水来たらうちとこ全滅やぞ」言うたんやけど、「工事できません」言われてん。そうかい、言うたその1週間後や。
奥川:あのときは、ここで災害が起こるなんて、本当に一つも想像してなかったから……。
岩渕さん:1週間後にそうなってしもてな。「言わなんだらよかった」思うくらいやったわ。そのあと担当者が来て、何も言えんとボロボロ泣いとった。
当時は県外から来た警察が地元の避難経路を把握しておらず、道案内に時間がかかった場面もあったという。
岩渕さん:地元の人間の言うことを聞いてほしいって、そこはずっと思ってる。
遺してくれたもの
いま慰霊碑が建つ場所は、もともと岩渕さんの家があった土地だ。

岩渕さん:役場が用意した候補地、あんなとこ誰も来んと思って。うちと他に3軒あった場所やから、その2軒の人に「ここへ記念公園作りたいんや、協力してもらえんやろか」言うて。それから役場行って「ここ提供するんで作ってください」って。
碑の石は那智川で拾われたもので、加工は岩渕さんの知人の石材店が無償で引き受けてくれたという。当時の写真はすべて流され、何も残らなかった。
岩渕さん:昔の写真はもうないから、NHKの当時の担当やった人が、Googleに直接電話してくれてな。過去のGoogle Earthから写真集めてもろたんよ。1万枚くらいの中から、那智谷地区を復興させる会のメンバー6人で3000枚に絞って、そこから選んで。
岩渕さんはそう言って、私に当時の資料集を譲ってくれた。

災害当日の夕方には、東北から戻る途中だった自衛隊37普通科連隊が、天気予報を見て那智勝浦へそのまま向かってくれていたという。差し入れの水にも決して手をつけず、規則だからと固辞していたそうだ。
15年前といまと

岩渕さん:(被災者の)29人のうち26人がこの1km圏内や。平野川から魚の首まで、この1kmで25人亡くなったわけやからな。
奥川:土砂災害の逃げ方も、私が高校生の時は知らなかったです。2階にいた方が助かるとか。
岩渕さん:ひろあきも紙一重やもんな。Tシャツ濡れてベタベタになったから、下行って着替えに行った時に……それまで2階におったからな。2階におったら助かったんや。家傾いたったけど。我が助かりたかったら、自分は自分で守るしかないと思うわ。貴重品も、絶対下に置かんことやね。取りに行かんように。
岩渕さん:砂防堰堤は今、進捗96〜97%くらいかな。あと2、3年で終わるとは思うけど、それだからと言って気を緩めたらあかん。何があるか分からんし。
魚の首の言い伝え

岩渕さん:「魚の首」いう地名な、昔の南海地震の時に津波あって、この那智川まで波が来て、その時にこのあたりにでっかい魚の首があったから、この辺は魚の首言うん場所なんやって、俺はばあちゃんに聞いたんよ。大きい地震が来たら、潮が一回ガーッと引いて、何分後かにガーッと来るんやって。俺それ3つか4つの時に聞いたある。小学校6年の時、この辺で大きい地震があってな、友達と「秘密基地作る」言うて、竹で作ってな。土掘って非常食のカンパンとか入れて。竹は根が強いから大丈夫や言うて、小さい時に聞いたことをそのままやってたんよ。
奥川:いろんな災害のこと、やっぱり知っとかないとダメですね。
受け継いでいくこと
最後に、岩渕さんはこう言ってくれた。
岩渕さん:災害いうのは、本当に忘れてしまう。だから忘れさせんために、俺はこういう活動もしてる。奥川さんも、そういう活動、誰が何と言うかは分からんけど、自分の信念持ってやったら、協力してくれる人がいっぱい出てくるから。それ続けていってほしいと思うわ。俺は俺で、生きてある限り頑張るし。一生懸命頑張ってください。
奥川:頑張ります。ありがとうございます。

ソマノベースをやっている理由は、結局ここに戻ってくる。土砂災害で命を落とす人をゼロにしたい。それは、ひろあきが教えてくれたことであり、15年間ずっと現場に立ち続けてきた岩渕さんが、いま託してくれたことでもある。
9月4日、また一つ歳を重ねるこの日を、忘れずに、次につなげていきたい。
